出会い無料のlovelove
※当サイトは、出会い系サイトの情報を扱っています。18歳未満の方は退場してください。 退場
用語集
出会いサイトの用語集をご紹介しております。
開き直りまくった女
大正時代の三大美人の一人として挙げられる、女流歌人・柳原白蓮は、大正10年10月21日
の、朝日新聞紙上に
夫あての絶縁状を掲載したことで
世間を大騒ぎさせました。
この出来事は、後に白蓮事件と、呼ばれるような大事件でした。
柳原白蓮は、伯爵・柳原前光の二女でしたが、本妻の子供ではなく、新橋の芸者が産んだ
子でした。そのことが彼女の波乱の人生に大きく関係するのでした。
生後まもなくして、母親と引き離され農家に預けられましたが、しばらくして柳原家に引
き取られました。
そして、13歳の時に、子爵・北小路随光(ゆきみつ)の養女としてもらわれていき、16歳
で随光の長男資武(すけたけ)結婚しました。(最初からそういうとりきめでもらわれて
いったのでした)
男の子を産みましたが、5年後に離婚して、柳原家に戻ってきました。
「出戻り女で妾の子」ということで、周囲からの冷たい視線に耐えながらも、詩歌を学び
歌人としての才能を開花しました。
その後、九州の大富豪・伊藤伝右衛門との縁談が持ち上がりました。
なんと、後妻の話で、相手は白蓮よりも25歳も年上で、しかも白蓮よりも年上の子供もあ
るということでした。
白蓮は、とても屈辱でしたが、周りは大賛成で、しぶしぶ結婚を承諾し、 大金持ちとの
愛のない結婚生活を送ることになったのです。
夫の伝右衛門には、京都に愛人が2人いて(しかもその2人は姉妹)、その他多数の愛人や
妾がいて、金にものをいわせてやりたい放題の女遊びに興じていました。
白蓮は「あかがね御殿」と称される豪邸に住み、その美貌と才能から、筑紫の女王と呼ば
れるようになりました。
そんなある日、白蓮の戯曲が掲載された雑誌「解放」が縁で、 白蓮と当時東京帝国大学
の学生だった宮崎龍介は、 別府にある伊藤家の別荘で出会いました。
白蓮は、溌剌として社会改革に情熱を燃やす、この7歳年下の青年に新鮮な魅力を感じ惹
かれていきました。
龍介も、三日間の別荘での滞在中に、気品があって大人の美しい女性である白蓮に惹かれ
ていきました。
そして2人は忍び逢うようになり、 やがて、白蓮は宮崎龍介との真実の愛に生きるため
10年間の結婚生活にピリオドを打つべく、あかがね御殿を出ていくのでした。
こっそり家を出た(蒸発?)ので、当時の朝日新聞はニュースとして報じました。
「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」 (当時の新聞の見出し)
先手必勝とばかりに、白蓮はその日の夕刊に公開絶縁状を掲載し、社会的に大反響を巻き
起こしました。
そして、全てを投げ打って、セレブから貧乏生活に突入するのも覚悟の上で、宮崎龍介と
結婚するという茨の道を選んだのでした。
この出来事を機に、自由恋愛という言葉が流行しました。
白蓮は、龍介の社会運動を支えながら、情熱的な女流歌人として活躍し、81歳の生涯を閉
じました。 ちなみに、当時新聞に掲載された絶縁状は、以下の通りです。
『私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。
私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます』
ブックマーク一覧
-
-
Google Bookmarks登録
-
はてなブックマーク登録
-
del.icio.us登録